FULLERVISHー蜜売家枇薬

創作落語の同人グループ・蜜売家一門より、蜜売家枇薬の雑記録です。

代議会書類_本文3

それは狂気に満ちていました。生暖かい液体の中に沈んでいるもののように見えました。本来であれば祝福を得るべき"フルラーヴィシュ"は[null]の策略によりその形に成り果てたのです。だからわたしはその時点で既にわたしの末路を予測していました。いくつかの仮説も講じました。確かにそれは無意味ではありましたが、価値はありました。学問が病のようなものである限り、思考実験というものは発作として正当に治療を受ける権利を有するからです。つまり、科学としての医術がわたしの魔術としての科学を癒していたことになります。それは矛盾でしょうか。いえ、矛盾であることは理解しているのです。しかしわたしは、保身か、自己犠牲を選ばなければならない状況に置かれていた故に、この矛盾を度外視して思考実験を行うほかなかったのです。生暖かい液体は色が変わることをご存知でしょうか。例えばわたしが近づくと、ほのかに橙色に染まります。しかし通常状態においては、それは凍ったような紺色です。生暖かいと言うよりは熱湯であり、時にはふつふつと煮立っているようにすら見えます。"フルラーヴィシュ"に欠如したものを補うことを使命として背負った何者かが近付けば、恐らくこの液体は本来的な、恐らく透明に近く、人間の平熱に近いものとして、いわゆる「正常」となり、中身を吐き出すのでしょう。それまではきっとここは"フルラーヴィシュ"の城であり要塞です。しかし長い間気になっていることではありますが、凍った紺色が通常状態であることは非常に興味深い事例と言えませんか?補色の黄色は果たして何を指すでしょうか?それを知るのはダイオードです。わたしは[null]の犯した罪を償っているかのように見せる儀式を執り行うための"フルラーヴィシュ"の将来的な家庭教師でした。つまりわたしは、何者かの代わりに"フルラーヴィシュ"の世界を指導する「先生」になる者というわけです。何故このような役割を担うことになったのか、わたしのたわごととして、まあある種の、ヒンター・グルンド・ムズィークとしてでも聞いていただければ幸いです。

気分は特に要らないようで、天気だけ見れば晴れた日でした。季節が巡るのを早いと感じる者に同じ時間を捧げたくはありませんでした。時間の「これまで」を屠る者に時間の「これから」を捧げたくない[2-U]と、時間の「これまで」を完食し時間の「これから」を恐れる[Luv3]の闘争です。昼下がりの庭には逃げてきたような水が溜まっており、そこには懐かしみすらあるあの時と同じ"Kochab"の瓶が浮かんでいました。きっと熱湯に落ちて沈んで死んだ夢のまた夢とは束の間のことで、そのまま子宮を得て"Sualocin"に成り代わっていたのです。それは急な至上の幸福でしょう。

猫の姿をした宇宙人は褪せない思い出の中のシャボン玉とともに存在し、もう生きていないそれのことばかり、頭にこびりついてやまないのです。その時分には、瓶詰めにされた宇宙人でしたが既に彼は溶けたキャラメルになっていました。簡単な話です。

それは脳内麻薬によって正気を失ってしまったせいだと思うのですが見ないふりは出来ます。そもそも、脳内麻薬によって正気を失ってしまったふりと主張することすら本来的には可能です。人生を暗いと感じようが、それに苦しむのは当人だけであり、人生とは舞台芸術として美しいものなのです。わたしたちの死は義務ですがその明暗はわたしたちそれぞれと考えています。さらに言えば、生きているという現在行使している権利に関して、それにどの程度の明暗を充てるかもまた個人の自由です。人生が暗いと感じようが、それもまたその生の形であり、捨てること、或いは一点確認出来る薄明に向けてその運命を投げかけることすら自由です。存在したもの、存在するもの、その全てには理由が付加されており、その各々の理由に基づいて然るべき制裁が行われることがある種の目的です。